「横浜市泉区」!地区名の由来と発展の背景は?
横浜市のなかでも南西に位置し、農地とともに豊かな自然に囲まれた住宅地がある泉区。
昭和の時代より人口が増加し、分区して、今の落ち着いた魅力にあふれる横浜市泉区になりました。
今回の記事では、横浜市泉区について地区名の由来や背景をご紹介します。
地区名が横浜市泉区になるまでの由来とは?
横浜市泉区の誕生の由来は、古く昭和の時代にさかのぼります。
昭和13年から14年、現在の横浜市泉区のエリアは人口増加をはじめました。
その背景として、疎開者を受け入れや、軍需品を生産する工場や社宅が新しく設けられたことがあります。
戦後は一時的に人口増加もストップしていましたが、昭和26年以降、戸塚駅のエリアから住宅地化が進みます。
ベッドタウンとして変貌をとげたことを背景に、人口も急増。
昭和44年、戸塚区は瀬谷区に分区し、このときの戸塚区の人口は23万5000人。
さらに、昭和61年には、戸塚区の人口は45万人にふくらみ、全国112の行政区のうち全国で1位となりました。
この背景をうけ、再び分区のはこびとなり、戸塚区は複数の区にわかれ、そのひとつが泉区という地区名になったのです。
公募で決まった地区名!区民に愛される横浜市泉区の名前の由来
次に、横浜市泉区の地区名の由来もご紹介します。
前述の通り、昭和61年に戸塚区より分区され、地区名は公募によって決められました。
公募では、当時8,000通を超える応募があったそうです。
地区名の由来として、和泉町や泉川が影響したようで、公募で集まった上位の名前は、いずれも“いずみ”と呼ばれる地区名でした。
・1位「和泉区」683通
・2位「泉区」598通
・3位「いずみ区」352通
公募で集まった案を、区名選定委員会によって決められました。
その際、旧町名は使わないという基準があったそう。
泉区がまだ鎌倉郡だった当時、中和田村という村があり、中和田村が和泉村をはじめとする3つの村に由来していた地名であったため、1位の「和泉区」は見送られたともいう話もあります。
横浜市泉区が現在の地区名に至った経緯には、長い歴史や人口の変遷などの背景があり、知ってみると興味深いですね。
最終的に決定した「泉区」は、湧き出る泉のごとく、若い活力を生み出しながら区が発展していくことを願いつけられたそうです。
まとめ
横浜市泉区は、昭和の時代より段階的に発展し、それとともに人口も増加、分区の歴史をたどりました。
今日親しまれる「横浜市泉区」の地区名も、市民が考えた公募作品に由来していると知ると、また一段と親近感や愛着がわきますね。
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